サブフォーを達成したけど、後悔したこと
僕が初めてサブフォーを達成したのは、2013年の京都マラソンでのことだった。本当なら嬉しいはずなんだが、残念ながら後悔が残る結果になってしまった。
それは2度目のフルマラソンだった。記録は3時間56分弱で、僕としては十分満足できる。ほぼ目標タイムで走れたのでよかった。
後悔した理由を一言でいえば、全身全霊で走りきらなかったということだ。
妙に不完全燃焼な走りにしてしまった。時々カメラを片手に写真を撮りつつ、ファンラン的に走った。
うん、それはそれでいいだろう。とても楽しいし、市民ランナーの正しい楽しみ方だと思う。余裕を残してのゴール。なんて理想的な走りだと今となっては思えるけれど、そのときはそんな風に感じなかった。
走っている間は楽しくてお祭気分を堪能した。練習の成果だと思うけれど、いわゆる30キロの壁も感じないまま快調の走りきってのゴール。マラソンの前半よりも後半のほうがペースもあがっていたし、レース展開としては申し分なかったと思う。
いったい、どこに問題があるのか?
マラソンとは自分の限界に挑戦するスポーツだと思う。ファンラン的に走れるぐらいということは、自分の限界ポイントはもっと上にあったのではないか。自分の限界に挑戦することを忘れてしまっていたことが恥しい。そんな風に感じたのである。
さらに言えば、見たわけじゃないけれど、他のランナーはみんな顔をゆがめながら必死で走っていたに違いない。それに比べて僕なんかは余裕をかましながら走っていた感じがして急に恥しくなった。僕は僕なりに必死だったのかもしれないが、それでもゴール付近でも写真を撮ったりする余裕があった。
せっかく完走できておまけにサブフォーでおめでとうと言ってもらえても、なんだか複雑な心境で心の底から嬉しいと思えず、浮かない表情をしていたと思う。
ではどうすれば、後悔しなかったのだろう? せめてラストの数キロは走ることに集中して自分の限界を試すことをすればよかったと思っている。
それに写真なんて撮っていたらだめだと思う。もちろん少しぐらいはいい。今日はファンランで行くぞーと思うなら全然OK。僕はサブフォーを狙いたいとか言いつつ、写真も必要以上に撮っていた。中途半端な感じがする。
もともと僕は運動に自信がなく、スポーツとはほぼ無縁。マラソン大会に出場するようになったこと自体、自分でも意外なことである。運動には自信がないからこそ、地道にコツコツとトレーニングに励んできた。
京都マラソンは、その努力が試される晴れの舞台と言えるわけで、そういうときだからこそ、走ることに集中すべきだった。完走した後、ふとそんな想いがわきあがってきた。
その翌年。
幸運なことに再び京都マラソンに当選し出場することができた。
前回の反省から、この時はカメラも一切封印し、走ることだけに集中した。途中足が止まりそうになりながらの、苦しい走りになってしまったが、なんとか走りきり、記録も数分だけど更新することができた。京都マラソン2014は本当に満足のいく結果だった。